この時代の経済紙、一般紙で語られるソフトウェア技術者とはメインフレーム派遣の事が多い。 実際にあたらしいソフトウェアの開発を行うものはソフトウエア研究者として別扱いだったような気もする。 だからその頃五万とつくられた派遣会社はXX研究所と称するものも多かった。
以下出てくる社名の説明 L#の数値#は下請けの階層を表す。 Layer1 が頂点のメインフレームメーカーF(L1)社 | IBMコンパチ・メインフレームメーカー |
O(L2)社 | F(L1)の下請け(派遣元請け) 宗男課長の会社 |
I(L3)社 | 自分の勤務する会社, O(L2)の下請け。出向の形式。 |
J(L4)社 | I(L3)社に派遣に来ている |
S(L3)社 | O(L2)の下請け。地元商社で給料はFより高い? |
H(L3)社 | O(L2)の下請け。北海道のヤクザが社長の会社 |
X(L4)社 | H(L3)社の下請けらしい、よくわからない |
QCサークルというのが持てはやされた時代でした。
一般的には工員達に勤務時間外にもなんかやらせてみようという目論見らしいのですが、派遣には月50時間までの残業費が出る。
新人派遣員達には電算機の基礎から教えてやるということでした。
会議室に新入り数名〜十数名。 O(L2)社の主任級の誰かが講師ということで18時頃から始まるわけですが、
その内容はなんかをXROXコピーした教科書を新入りに順番に朗読させるというものでした。
質問は答えてくれません。
かなり簡単な質問にも答えないのですが、なんかそういうものなんだと納得して居ました。
これも夏が来る頃には出席者もどんどん減っていつのまにか消滅してしまった模様。
しかしその頃請け本社から課長さんがやって来ました。
課長さんの名前を忘却したので見た目が近い 鈴木宗男(仮名) としておきます。以下 宗男課長と記述。 元請けの社名はO(L2)社としておきます。L2 は layer2 .. 上から第二層ということで
宗男課長がやって来るという噂を聞いたO(L2)社員達はパニックにおちいりました。
それほどまでに恐ろしい男なのか、と楽しみにしているとやって来たのは親父ギャグを出しまくる温厚な中年ですが体型はプロレスラーに近い。下請け新人の当方達にも気さくに話しかけます。
なんでも情報処理特種を受けようと思ってるがなかなか受からないそうで、
しかしそのての試験のことなどこっちは全然わからない。
さて一日目の定時終了時後早速召集がかかりました。QCサークルというやつなのでしょうが当時はそんな用語も知らない。
大き目の会議室を取って元社およびその下請け孫受け数十人を一同にあつめると突然テストを始めました。
テストと言ってもプログラム入門書の最初のほうにあるような問題をいくつか出しただけ。
1 から N までの奇数を合計して出力せよ。
この程度の問題。
新入り十数名のうちの三人ほどは直ちにできたようだ。しかし先輩方数十名の大半はいったい何をやっておられるのだろう、とおもっていると宗男課長の罵声が飛んだ。
宗男課長の人徳の無さはさんざん耳にしたがこれはかなり驚いた。
この有象無象が宗男課長の会社に雇われている理由は要するに派遣要員は一時間いくらの契約だからその内容は問われない。
だから実は入門書の一問目が解けなくともどうでもいいのだ。
しかしそれではあまりにもふざけている、と宗男は考える。考えるよりも先に罵声が飛びパンチが飛ぶ(伝聞)。
新人教育の先輩主任講師がいかなる質問にも答えられなかった理由が判明したわけですが、
あまり突っ込んだ究明は行わなかった。
新入りだから大人しくして居たというのが主だが、しょっぱなに驚くべき事実を教わってしまったからというのもある。
メインフレームシステムは その1ワード(24bit) に bit0 〜 bit23 の番号がついてるわけだが、
そのbit0というのは 2^23 の最上位bit を意味する。
これには度肝を抜かれた。
ついでにまったくの素人ということにされてしまった。
ちなみに IBM と ATT(UNIX)はとことん用語を変えて使っていてその後も プロセスとタスクはどう違うのだろうかと苦しんだ事もあった。
それにしても最上位がbit0とはいったい何に反逆したのだろうか。
シリアル転送で頭から行くという程度は思いあたるが、もう調べる価値も無し。
月一程度で渋谷のI(L3)社本社に出勤することも有り。
浅田先輩も午後から姿を見せる。かしこまって派遣先の状況を報告。
フランケンがどうも仕事出来なくてね〜、などと雑談してる。
狭い事務所を見回すと毎回見たことの無い顔が。新入りなのか何なのか。
まあそれはどうでもよいが、 1985 の後半頃に Sun/4が入っているのを発見。
PC98にも事欠いて居るのに妙だとは思ったがあまり追求せずに。
詳細は後ほど。
形式上の勤務地なので健康診断なども東京で行うことになる。
O(L2)先輩社員達の実力が晒しものになってからは新人講習は無くなった。
しかし定時にタイムカードを押すこともできない・・
そんなことをしたら宗男課長の鉄拳制裁を喰らいかねない。
新入りに大仕事があるはずもなく、しかしなんかぶらぶらしているわけにも行かず迷い込んだのが資料室。
これは小中学校の図書館程度の大きさだったと思う、時々Fのバッジを付けた暇人が新聞を読んでるくらいで、派遣の同僚が来ることはまず無い。
よって資料室の本をかたっぱしから読み漁る日々。
bitが創刊号から揃っているのはさすがだった。これはその年のうちに全部目を通したかも。
I/O等のホビー誌は無いが 月刊ASCIIはカウンターに置いてあった。
日経関連の雑誌の数々も全部そろって居る。
日経コンピューターの「動かないコンピューター」はなかなか面白かった。
その十数年後に流行ったプロジェクトXという奴もその手のものなわけだが、もう少し内容がある。
日経が揃って居るので「プレジデント」も有る。これが一番面白かった。
特に「最後の相場師☆是川銀蔵」の自叙伝は感動の嵐。
素人に株は無理というあたりまえの常識をしっかり叩き込んでくれた。おかげで株で失敗したことは無い。
わけのわからない本の山、OSのバグレポート、コーディング技法をまとめたコーナーになぜかある「コーティング(coating)の技法」・・(レンズの表面で七色に光ってるやつ)・・など。
コーティングの技法はカメラ好きだったこともあり一応目を通したが専門的過ぎてついて行けなかった。
雑誌類は他に米国誌の BYTE?, UNIX WORLD? など置いてあったようだが ロビーのほうにあるのでなかなか近づけなかった。 何しろ敵地潜入中のようなもの。
ちなみに資料室の場所はソフト塔とハード塔(女子工員ばっかりが数千人という魔境)との間にある100mほどの通路の途中。
滅多に人とすれ違うことは無いがやはり緊張する。
だから昼食時ハード塔食堂に行った帰りにそのまましけこむこともあり・・・しかしそんな配慮もまもなく起きる大事件によって不要になってしまう。
ページがインクで張り付いたままなので誰も読んで無いのがあきらかなバグレポートのなかに面白いのがあった。
「ボリュームにパスワードをかけた後にボリューム名を変更するともうパスワードは受け付けない。」
早速実行・・・本当でした。
ちなみにこのてのバグはWindowsにも有ったような気がする。
浅田先輩は自分の籍がある会社 I(L3)社 の先輩である。
I社からは社長の親戚の(当時は知る由も無し)カラオケマスター氏も居たのだが部署が違うのであまり会わなかった。
またJ(L4)社のフランケン氏はマイナー漫画の話しかしないのでほとんど会話は無い。
以上四名がI社グループなのだがその少数精鋭ぶりにはあたまがくらくらする。
浅田先輩とカラオケマスター氏の本名が似ているので当時のTVタレントの浅田彰の名前を借りることにした。
さて、浅田 先輩は他の元請社及びのその下請け各社の人材とは明らかに違っていた。
インテリなのだ。
発言はユリイカを基調とし、引用はシェイクスピアからジョイスまで縦横に使いこなし(想像)
それでいて当時の人気番組(ひょうきん族とか)もしっかりフォローして大衆の人気取りも忘れない。
(大衆と言ってもその机のブロックの数名なのだが)
電算に関する知識も今で言うところのIT評論家のような口調でまくしたてるから世間知らずを、というか無能を騙すのはたやすいだろう。
当面の話し相手はこの浅田先輩しか居ないからまあいろんな話をした。
自分の野望を聞かれたからまあとりあえず修行したい。そのうち著書も欲しいね。
最近売れ筋の C言語関連で出せばそこそこ売れるはず。
じつはもういろいろ出ていてタイトルも出尽くして居る。
じゃあ 「構造体と力」なんてどうかな。と言ったところこれが大受けで。
しかしこんなネタで受けてくれる人材に早速めぐり合えるとは、ということで自分の幸運を感謝した。
そして数ヶ月はボロが出なかった。
派遣組は各自が別の部署に行くので派遣グループ同僚の仕事振りは全然わからない。
その後宗男課長がやってきてO社主任級の壮絶な馬鹿っぷりを暴いた時もなぜか出題側に回って難を逃れていたのだが、鮮やかな立ち回りでなにも気が付かなかった。
浅田先輩の残業時間は常に月間50時間を超えて居た。 これには宗男課長も満足である。
ちなみに50時間を超えると給料には反映しないが元請社にはその分も入ってくるらしい。
元請社から下請けに行くかは不明。
ようするに筆者のような二流社員は月間50時間超の残業は基本的にしない。したくない。
浅田先輩はその点一流である。
だから常に今にも死にそうな青白い顔をした虚弱児であった。この点も当方と馬が合う。
しかしいったい何ヶ月目からであろうか。浅田先輩の欠勤が目立つようになって来た。
朝出勤すると (夜勤も有り) 例によって浅田先輩は居ない。病欠届けがでてるらしい。 しかしカラオケマスター先輩が言うには、街のパチンコ屋でそっくりさんを見かけたとのこと。 これは流石に有り得ないだろう、と一笑に付した。 しかし日がたっても浅田先輩は出勤せず、 実家に帰っているわけでもないようだ。 そんなことを繰り返しているうちに宗男課長がいきり立ってきた。 しかし時々思い出したように出勤してくる。 青白い顔がさらに青くなり透き通ってきた。そして激残業。 ついに消息を絶つ。
さて勤務時間中に宗男課長の緊急呼び出しが来た。 我らI社グループの面々も間抜け面をひっさけで集合。と言ってもI社の残りはカラオケマスターとフランケン合わせて三人である。 宗男課長激怒、しかし30分ほど我々を罵倒するとあっさり引き上げた。諦めが良い。 今思うと宗男課長にとってはありふれた事だったのだろう。 浅田先輩は懲戒免職にするとのこと・・・ってオマエはI社の人事権無いだろ。 さてこれで一件落着と思ったらフランケン先輩がガクガクブルブルと震えて居た。 そして翌朝ぶったまげる事になる。
浅田先輩とは同じアパートに住んでいた。四階建てアパート部の何部屋かをO(L2)社が借りていた。
当方は4Fの北側、ちなみに隣はF社従業員・・・ようするに正社員らしい。
かなり素行は悪い。のちにトンデモ事件を起こす。
浅田先輩は2Fだった。
そして翌朝出勤時、階下からなんかドアをぶっ壊すような轟音鳴り響いた。
カラオケマスター先輩が2Fの廊下で青い顔をして突っ立って居る・・
宗男課長の罵声が響いた。
「出て来いこのXXヤローッッ」 そしてドアを蹴っ飛ばす。(XXは不明、忘却、方言?)
とにかく課長は近所迷惑も顧みずドカドカと浅田先輩の部屋のドアを蹴っ飛ばした。 我々の姿を認めるとようやく少し平静さを取り戻したのかなんか人語を発した。内容は忘却したが課長はもう諦めてこれから出勤するようだ。 以下残されたのはカラオケ先輩が言うには、確かに浅田は室内に居るとか。 郵便受けの隙間から除くとなんか布団の中に多少動く生物らしきものが。 さて浅田先輩の処分はどうなったかと言うと、これがわからない。 当時は当然懲戒免職かと思ったらそうでも無いようだった。
通産省の情報処理試験である。
資格試験ではなく単なる検定なのだが法律上は資格として位置付けられている(らしい)。
当時は 高卒向け?の二種、専門卒以上?向けの一種、専門的なオンライン、 25才以上のみ受験できる特種 等分かれて居て現状とはだいぶ違うしその重要さも違うかもしれない。当時は非常に重要だった。
なにしろ電算機入門書の最初の方で壊滅している有象無象が派遣業界の大半なので、雇う側としては派遣員が二種に受かっているかどうかというのは非常に重要である。
だから給料も二種で月一万円、一種で月に二万円近く上乗せというのが常識であった。
逆に派遣を使う側の大手ではそんな資格は考慮しない。
ちなみに同僚先輩のうちの二十人に一人程度がこの二種に受かっていた模様。
二種と一種試験問題を見比べてあまり違いが無かったような記憶かあるのだが、 一種はアセンブラ(CAP-X)が必須なのでプログラマー系でないととっつきが悪いのでしょう。 難易度は一種の時は新鋭プログラマー?!が時間を全部使い切るほどの問題量が。 しかし合格点がわからないので難易度は不明。 とにかくこれで月二万円近くの手当てが追加されてようやく貯金が可能という感想であった。 試験会場はどちらかが世田谷の武蔵工業大学だったが、最寄り駅の等々力にはその十年後に何度か通うことになる。日本で何番目かのインターネットプロバイダがその近くにあった。
ではその上のオンラインと特種/監査はどうなのか、というとこっちはよくわからない。 給与規定では一種或いはオンラインと一緒くたにされて居たし、 特種のほうはなにがなんだかわからない。 自分の業務経験を書けという意味がわからない。 今思えばなんかそういう架空のJOBのシミュレーション(丁稚揚げ)ができるほどの知識と機転が問われて居たのであろうとは思うのだが、その手の実力は無かった。 なによりも当時は既に手書きの文字というのが物凄く苦痛で小論文試験というのは問題外であった。だからその数年後に受けた通信系の記述式試験の法規問題で偉く苦労することになった。 ちなみに特種の手当ては月三万円、監査のほうは想定されて居なかった。