8bitのパソコンが各社出揃うと、まだその限界も見えないうちに 12bit時代 というような広告が目に付くようになった。
8bitCPU需要はパソコン以外の家電機器がほとんどで、これも組み込み系の宣伝広告だから当時のパソコン誌でも巻末のほうにひっそりとだったかもしれない。
それでも秋葉に行けばそれなりに大きな看板が目に付く。
12bitだけではなく、 12/16bit時代だったかもしれない。
とにかく8bitでは遠からず追いつかなくなるのは当然だからだ。
ちなみに808x/Z80はアドレスは16bitだが相対ジャンプが±128番地しかない。
それ以上飛ぶには絶対番地しか無いので、1KB近い大きなプログラムでは番地固定になってしまう。
しかしこれは80系の欠点であり8bitの欠陥ではない。
Z80の不備としてはこれの他に掛け算が無いとか、アドレスの書き方が分かり難い(little-endian)との声も聞いたが、これも他のCPUを使えば済む話で12bitに移行するという動機にはならなかった。
更にはZ80馬鹿売れのせいでメーカーの営業もなんでも8bitが良いと言い出した。
だからこの二年後くらいに今まで8bitとして売ってたCPU 6800 を突然16bitとして宣伝したりする。
新宿駅の壁広告でも見たような気もする。
ちなみに16bitCPUではなく、16bitMPUである。
MはモトローラーのMなわけだが、突然MPU MPU と書き出したマイコン誌を見ているととても奇異な感じがしたものではあるが、すぐに慣れた。
そのうち業界はCPU(インテル)を駆逐してMPU一色になるだろう。
なにしろモトローラー会長の別荘は庭に湖がある(らしい)・・程なので。
それから十年間ほど、パソ通時代もCPU派とMPU派に別れて居たような気がする。
しかし90年代に入ると突然インテルが インテルの新MPU なるものを発表してしまった。
これにはぶったまげたが当時もうインテルの若い営業はモトローラなんか知らないかもしれない。
当時はまだソフトの違法コピーのようなものは少なかった。
シャープショウルームのゲーム猿達はともかく日立GAINに集まる貧乏人達はそれぞれマイコン誌から打ち込んだり、自分の手書き(当然だ)リストを打ち込んだりして居た。
では打ち込んだ後どうするのか。
Walkmanのようなものを持ってきている者も居た。
初期型は録音できないはずだが、当時は録音できるタイプのも出ていたような気もする。
あるいはカセットデーターレコーダーを持ってくる者も居たような気がする。
こっちはソニーのおもちゃを買う余裕は無いので講義を録音する名目で買ったマイクロカセットを使っていたのだが、割と不思議がられて居たようだ。
なぜかフルサイズ!のカセットテレコでないとデーターは取れないと思っている者が多かったようだ。
しかしマイクロカセットテープは高価で紛失し易く、結局ジャンク屋でカセットデーターレコーダーを買ってしまった。
このテレコは数年後の5インチフロッピー/パソ通時代に思わぬ用途で活躍する。
1982 6.22 だそうで、まあ特に印象は無い。
新聞に出た犯人二人はいかにもお坊ちゃん然として居た。
自分がなんで捕まったのかまったく分かってない風だった。いわゆる、反省の色が感じられないというやつ。
大手マスコミ記事も例によってアメリカの陰謀をほのめかすだけであった。
80年代頭でこの私的コンピューター誌は途切れてしまう。
想像を絶する手続きミスでマイコンを使う卒研の予定が生物/薬学系に変ってしまう。しかも外研というやつで派遣のようなもの。
各研究室の第一面接が終わったあとでなぜかその場の数人で皇居のほうの公園に行こうということになった。 するとそこに幼稚園児が数名居た。 我々のうちの一人・・全然知らない奴・・がやけにその幼稚園児を意識して一緒にあそびたがる。というか遊んでる。 靴を取られたとか言って座り込んでしまう。 じゃあ靴を取り返してやろうという幼稚園児数人とのおっかけっこが始まって、いつのまにかとんでもない時刻に。
学生のうちから派遣になってしまうという実に先の見える状況に落居ってしまった。 投げやりの就職の後今度は自宅が取り壊されるという事態に。 そんな時に会社から住居付き出向(派遣?)の話が来たので乗っかってしまった。 このとき本当に命運尽きたのであろう。